ネグレクトといじめは一生付きまとう。旅立ちまで

不快な表現があるかもしれない。

卑屈な感情が見えてしまうかもしれない。

でもこれからの目標を見つける為、今までの人生を文字にしていきます。

 

ある女性に出会いぽっかりと穴が開いた。

もう考えることは。

 

憎い。

〇ろす。

どうやれば自由になれる。

仕事に出ても憎しみが消えないぐらい大きくなった。

 

急激に体が育ち160cmの身長が176cmまで大きくなった。

母の彼氏もが体が良くなった私を押さえつけれるはずもなく目を合わそうとしなくなった。

母も私が四六時中イライラしてるので腫物を扱うような感じの接し方になってた。

 

あと少し、こいつらクズに手を出して罪になるなんて御免だとも思っていたので仕事→海→帰宅はずっと続けていた。

 

19歳の秋、仕事で怪我をしてしまう。

骨には異状なかったが歩けないぐらい痛みがあったので仕事を休んでいた。

 

母「日給取りが何休んどんや?」

私「怪我したから休んどるんやけど」

母「労災にして金とって来い」

私「そんな事したら仕事に行けなくなる」

母「じゃあ働く気ないんやったらやめてこい」

 

もう母とは話が通じなくなってきた。

そして私に文句言う時は包丁を手にするようになった。

 

私「労災や金って言うんやったら迷惑かけることになるからやめてくるわ」

その日の社長が戻る時間に会社に行き辞める旨を伝えました。

仕事も母に奪われた。

 

家に帰ると知らないおっさんがいる。明日からここに行けと

隣県の住み込みの工事現場でした。

急ぎの現場で7時から27時まで

13日間、しかも殴る蹴るのゲスの職人・・・

さすがあの親の用意した現場やと思い本当に親を〇そうと思いました。

 

現場が終わり一旦家に帰る4日休んで次の仕事と言われて解散しました。

家に入るなり親に「給料出せ。出さないんやったら本気で〇す。もう〇さな俺が〇されるんやろ?だから金出して開放してくれん?」

今までにないぐらい笑顔で話ししました。

 

母「給料は6万やった」

そんな訳ないやろ1日1万5千円って現場で聞いてるのに。

私「19万5千円あったやろ? 6万円って事はもう〇し合いしかないんやな」

母「金はもうない。それ持って出ていけ!!」

私「これ以上、私の事探したりしたらマジで〇す じゃあさようなら」

 

これで家を出ました。

母は震えてました。

私を見る目はすごくおびえていた。

家を出たら雪が舞っていた。

電気工事の作業着で着替えを持たず歩いて海に向かいました。

Eさんに会いたかった。もう戻るつもりもなかったし最後にあの景色を見たかった。

 

海について

生きるって何だろう?

あの時、今日と同じ事が出来てたら幸せになれたんだろうか?

ここまで憎しみに染まった私を見たらどんな顔するんだろう?

もう一度、会いたい。

今だったら好きだといえるのに。

「今までありがとう、さようなら」

一言つぶやき東に行こうと歩きました。

 

生きる意志もなく夜に歩き昼に公園で寝る。

ホーム〇ス生活を1週間続けました。

仕事探しもしていなかった。

 

あるお好み焼き屋さんでKさんと出会う。

酔っ払いうざいと思っていたら

K「兄ちゃんこんなとこに来るってことはこの辺に住んどん?」

私「いや今、東に進んでるんです」

K「どこまで行くん?歩きってことは近くやろ?送ってこか?」

私「いや目的地はないんです。」

K「どゆこと?」

私「家出てきたんです。次決まってないし行けるところまで行ってそこで仕事探そうかと」

K「あかん! 親と仲違いなんてしたらあかん!戻って謝れ!」

やっぱ酔っ払いはめんどくさいなと思いつつ。

電気屋で怪我したところからのざっくりした話をして

私「もう行くところまで行ってしまったんです。憎しみしかない今、もう戻ることをできない。」

K「俺も親と仲良くないんや」

K「家出て今更やけど謝りたいと思ってる。いつか気持ちが落ち着いたら家帰れよ」

私「そんな日が来るんですかね?」

私「じゃあ もうおなか一杯になったし店出ます。」

会計して外を歩いていたら後ろからKさん走ってくる。

K「これ少ないけど持っていけ 後俺の家の電話番号や」

手に握らせてくれたのは5千円と電話番号のメモ

私「こんなん貰えない。ここにも戻る事もないかもしれないし」

K「じゃあ貸といたる。俺は心配や落ち着いたら連絡してくれたらええから」

K「男が一回出したもん引っ込められへん持っていけ」

私「いつか返しに行きます。ありがとうございます」

この2年後、Kさんのお母さんと話しした。

私「もしもし私、Tと申します。Kさんは御在宅でしょうか?」

K母「もうあの子を遊びに誘うのはやめてください!」

いきなり怒られた。

私「違うんです。2年前、私家出したんです。その時Kさんに出会って家出の話聞いてもらったら少しでも足しになるだろと5千円握らせてくれたんです。」

私「今は○○で職につき5千円お返しすることが出来るようになったのでお礼とお返しがしたいんです」

K母泣き出して「あの子が本当にそんなことしたの?悪い仲間に誘われて毎日飲み歩いてるんです。」

私「家族と仲が悪いし母に謝りたい。お前もいつか許せるようにともいわれました。私は母をまだ許すことはできないけど本当に助かったからせめてお金を返しに行かせてください。」

K母「もういいです。私の知らないあの子の事を教えてくれてありがとう。誰か1人にでも心から感謝される行動をとってくれたことがとてもうれしい。だからお金はあなたがずっと持ったままにしてあげてください。そして思い出してあげてください。」

 

電話は切られました。

20年たっても時々元気にしてるのだろうか?

どこかで会えないだろうかと思ってもお好み焼き屋はつぶれていた(電話した年に戻ってみた)

 

私の人生で大切な人 2人目です。

この電話した時21歳でした。

次は、お好み焼き屋出てからの足取りを投稿します。

 

 

 

 

 

ネグレクトといじめは一生付きまとう。18歳まで。

不快な表現があるかもしれない。

卑屈な感情が見えてしまうかもしれない。

でもこれからの目標を見つける為、今までの人生を文字にしていきます。

 

 

学校へ卒業証書だけ取りに行った。

帰宅後、知らない人が家にいた。

母「明日からこの人の会社で働くのよ。」

 

家から出ていく事はかなわなかった。

自分の中ではどこか遠くのところに行って住み込むつもりだったことを伝えた。

その時に言われた言葉に私はまた絶望した。

 

子供は20歳になるまで家から出れない。

法律的に成人するまで独立できないと。

 

今でならインターネットを使い調べることが出来るがまだまだインターネットなんて普及していないし携帯電話もない時代だったから、あと5年は本当に気分が沈んだ。

 

その会社に次の日から働きに行った。

外壁塗装屋だった。

 

ただ未成年の労働には制限があるようで使いにくいという理由で3か月でクビになった。

何メートルかよく覚えていないが高所作業ができないというのがネックだったようだ。

 

ただいまだに思い出しても27日ぐらい出勤したのに一回も給料をもらったことがない。

母が貰ってたんだろうな。

 

次の会社は自分の見つけてきた電気工事会社に日当6千円で働きに出た。

27日出勤×6000円=162000円

私が社会に出て初めて手にした金額だ。

 

給料袋を手にして、いくら貯金に回してとルンルンで家に帰りまた絶望した。

母「給料袋出せ。子供がお金持つとろくなことにならない。」

 

奪われた。

私に渡されたのは2万円。

母「あんた働きだしたんやから生命保険自分で払いや。仕事行ったときのジュース代はは小遣いでやりくりしろよ」

生命保険料1万4千円を郵便局に入れ、残ったお金を見て泣いた・・・

 

仕事中10時と15時にジュース代がいる。 

110円×2回=220円

220円×27日=5940円

 

働きに出てジュースを買う事なんてできなかった。

でも現場仕事なので水道も無い所だとジュースを買うこともあった。

貯金なんてできなかった・・・

 

働き出して1年はたとえ1000円でも残してと頑張った。

 

2年目、月から木曜は22時帰宅で土曜日の仕事終わりに家に帰らなくなった。

仕事終わりに自転車に乗り海を見て9時半に家に向けて帰る。

土曜日は朝日が昇るのを見て橋の下に移動して寝る。

日曜の夕方に家に帰り月曜の為に寝るというサイクルになった。

ただただ家に帰りたくなくなった。

 

地元の暴走族に囲まれたこともあった。

ただ近所の人で「お前なにしとん!?」「こいつんち母子家庭で親やばいんよかかわらんほうがええで」と見逃してもらえた。

 

その時はえ??そこまで!?って不良と呼ばれる集まりにも居場所がないんやろうな

元から参加するつもりもなかったけど、やっぱ私はいつまでも一人なんだろうな。

 

冬になり寒い中、凍〇でもしないかなといつもの場所にいたら1人の女性に出会った。

最初は3日に1回ぐらい見かけてるぐらいで、声をかけるわけでもなく、自分のやってることを棚に上げて、また居るキモイなって思うようになってた。

 

見かけるようになって1ヵ月ぐらいたった時、声をかけられた。

女「ずっとおるけどなにしとん」

 

凄いビックリした。人間が嫌いになっていたからすごい怖かった。

どう話を返せばいいかわからないし、その場を何も言わずチャリにまたがって帰った。

明日は別の場所探さなあかんかな?とかその人に対する失礼な態度の事なんか考えていなかった。

それにひどくイライラしていた、ただ海を見続けることも私にはできないのかと。。。

 

次の日、どうしようかと思っていたがその場所がすごく好きだったので、昨日の事もあるしもう声はかけてこないだろうと思っていつもの場所に行った。

 

1時間ほど波の音を聞き空を見上げるように寝転んでいたらあったかいコーヒーを差し出された。

 

女「なにしとん?昨日はびっくりしたわ、これあげるから何しとんか教えてよ」

びっくりした昨日の態度でもまだ話かけてくるのかよと思ってた。

※名前はイニシャルで書きます。

 

私「いらん。お金ないですし」

女「あげるゆーてるやん」

私「知らん人から物貰ったらあかんし、友達でもないのにおごってもらう理由ないです。」

女「子供!? 知らん人から貰ったらあかんて何歳やねんw私の名前Eっていうんよ。名前教えてよ。」

私「T」

E「名前お互いに知ったんやから友達やろ」

私「違います」

E「何歳?私18歳」

私「16歳です」

E「高校生?わかいな~自己紹介したんやしコーヒーあげるわ」

私「ありがとうございます。高校はいってないです。」

E「コーヒー飲んだんやし、昨日も聞いたけどなんしとんか教えて?」

 

本当の事を知ったら気持ち悪がってもう寄ってこないだろうと思って、今までの事を話した。

話し終わったらEさんがなんか泣いてた。

E「なんで平気そうに淡々とそんなこと言えるん!」

怒られた。

 

本当にうっとおしかった。

私「お金もない。友達もいない。居場所がない。そんなことがもう決まってるのに泣けば手に入るの?怒れば手に入るの?ただ何もないこの場所で景色を見ることも私には許されないの?」

コーヒーのお礼も言わず自転車にまたがり私は逃げた。

それから1週間、別の公園のベンチで過ごした。

 

逆に25年このやり取りを忘れることが出来ないのは1週間のせいかもしれない。

ベンチでボーっとしていると怒られた事をグルグル考えてた。

酷い事を言ってしまったんじゃないか?

コーヒー貰ったのに

知らん人なのになんで怒られたんだろう。

 

土曜日の仕事終わり海のほうに行った。

会えなかった。

友達って言ってくれたのにな友達ってあんなに簡単に出来るものなのかな?いろんなことを考えるようになっていた。

 

それから何回目の土曜かは覚えていないけどあの子に会えないなと思う気持ちも薄れてて来たとき。

 

E「なにしとん?」

私「何もしてないです。」

 

びっくりした。もし見つけてくれても、もう声はかけてくれないだろうと思っていたから・・・

 

E「遊びに行かん?」

私「無理です。お金ないし。」

E「ええやん、たかるつもりもないし、あそびにいこうや」

 

本当にイラついた。今考えると凄い酷い事をしたと思う。

財布見せて言ってはいけない事を言ってしまった。

 

私「この前も言ったけど、ここでただ海を見ているのが何がいけないんや!この財布見てみろ!千円札も入ってない俺に何ができるんや!残った金が欲しいんやったら全部やるから消えてくれ!」

怒鳴ってしまった。それで小銭を全部出してEさんの前に置いて自転車にまたがった。

 

本当に最低だったと思う。自分が一番嫌悪している母親の様に怒鳴った事がとても悲しくなり後ろからごめんなさいと聞こえていたけど、聞こえないふりをして私はその場から逃げた。

 

その後はただ仕事に打ち込んだ、何も考えなくて済むから、、、

無理をしすぎたのかヘルニアになった。

 

ヘルニアになって2ヵ月ほど海にはいかなかった。

いや、行けなかった・・・仕事に出ないと母から攻められ痛みを我慢しながら仕事に出たせいで終わるころには家で寝たいという状態になっていたから。

 

17歳になって痛みも出なくなった頃、家に帰りたくなかったのでまた海に行くようになった。いろんな場所を試したけどその場所が一番しっくり来たから、もう会えないだろう何か月も姿見せてないし見かけても声はかけれないだろうあと3年ゆっくり出来るかななんて思っていた。

でも会えたら謝ろうとは思っていた。

 

堤防上で横になり波音を聴きながら何日か過ぎた頃、声をかけられた。

E「すみません。少しいいですか?」

 

あぁ、分っていたけど壁はできるよね、てか普通初対面の時がそのテンションなんじゃ?と、でも謝ろうと考えていたから何も返さずに自転車にまたがった。

堤防に来るまでに自動販売機があるからそこで2本ジュースを買い戻ると泣いていた。

何で泣いてるかよくわからなかった。

ジュースを差し出して「この間はごめん。ひどいこと言ってしまった。これ仲直りの印。」

 

泣きながら凄い目を丸くして

E「なんそれw 何も言わずに自転車乗るからまだ怒ってるって思ったのにww」

E「どこか行くだけやったら言ってから行けww 泣いて損した」

私「ごめん・・・ これ受け取ってくれる?」

 

ジュースは受け取ってもらえ謝ってから初めて会話というものをした。

そしてあの日、私がEさんの前に置いた小銭を封筒に入れて渡してくれて謝られた。

 

私もあの日、後悔した事を言って帰る時間になったので少しすっきりして帰路につこうとしたら「また会える?」かと聞かれてビックリした事と嬉しかった事も今でも思い出です。

 

そこからは半年ほど仕事が終わって会える日がとても楽しみになっていた。

テレビ(芸能人)の話されても分からない事、マクドナルド等のファーストフードに行ったことない事を凄いビックリされた。

土曜の夜から日曜の夕方までここにいる事については「ばっちいwwホーム〇スじゃんw」なんて言われながらも人と話しをする事がこんなに楽しいと思える毎日だった。

 

半年後ぐらいにEさんの家に誘われた。

家に行って言葉を失った、雨の日には雨漏りする隙間風も凄い家だった。

間取りは2Kで部屋に入ると4畳半そして「外で寝るなんて危ないし少しの間だけやけどうちに来ればいい」と言ってくれたのがびっくりだった。

 

この時、好きだ付き合ってと言ってもいないし、ただ仕事終わりの喋ってる人がなんでこんなことを言うんだろう、何か魂胆があるんじゃ?と嫌な気持ちが膨らんでいた。

 

次の日からやっぱり海に通う毎日で海で会っておしゃべりする日が続いた。

月に何度か家に呼ばれ晩御飯をご馳走してくれた。

 

その頃、ご飯を食べない日がある事を怪しんでいた母親の事を何も考えてなかった。

 

その年の10月、忘れもしない事が起こる。

Eさんも片親で毒親だから家を出ると話をされた。

違う県に行くつもりだから一緒に行かないか?と一緒に来てくれるならうれしいし最初は苦労するだろうけど頑張れるとお願いをされた。

付き合ってもいない、好きかわからないそれでも一緒にいたいと本気で思ったから行きたいと精一杯伝えた。

 

実行する日は給料日の27日、家に戻って荷物持って海に行くと約束してその日を待った。

 

少しだけ早く帰り荷物をつめたりしてたのもばれていたんだと思う。

27日に家に帰るとまとめておいた荷物がない・・・

紙袋に箪笥に残ってる下着類を急いで詰めた。

そして紙袋を持って家を出ようとすると母が仁王立ちで玄関をふさいでいた。

母「給料やったんやろ?金を出せ。」

私「ごめん 急いでるから帰ってから渡す。」

母「なに持っとん?」

私「本屋に行こうと思ってるから袋下げていくつもりなんや」

母「もう一回いうわ 給料出して。」

 

ここで渡すと家出したときの金が無くなるので最大限抵抗した。

もう正直に話をした(E以外の事)

今日出ていく。これ渡したら来月生活できない。今まで言いなりになって給料を言われるだけ渡してきた。出て行かせてくれと

 

母「そうか。じゃあ今まで育てたったから300万持ってこい それ払ったらなんも言わんと行かせたるわ」

私「そんなお金がないのわかってるやろ。学校にも行かせてもらえず小遣いもなくもう嫌なんや 俺は奴隷じゃない」

 

そこですったもんだしてる間に母の彼氏が来て押さえつけられ荷物を奪われ給料袋を抜かれた。

この時、本当に〇したいぐらい憎かった。

そして家を飛び出そうとしたら

母「自転車使うなよ今まで貸しただけやけど反抗するなら貸してやる義理もない」

そして待ち合わせの時間まで30分しかない走っても間に合わない。

3時間かけて海へとついた時には誰もいなかった・・・

 

本当にバカだったんだと思う。

給料持って荷物なんか取りに行かず出ればよかったと

何で自転車を使わなかったのかと・・・

 

その日からEさんには会えなかった。

その後、19歳まで海に通ったけど私の非日常は日常へと戻った・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネグレクトといじめは一生付きまとう。学生編

不快な表現があるかもしれない。

卑屈な感情が見えてしまうかもしれない。

でもこれからの目標を見つける為、今までの人生を文字にしていきます。

 

皆さん初めまして。

 

先ず私は生まれた時には離婚が決まっていて物心ついた時には母親しかいなかった。

私の名前の由来は、

母「望まれた子供じゃないからお前に付ける名前がなくお寺につけてもらった。」

 

私の子供の頃は母子家庭という言葉は、いじめに直結だった、、、

あの家は母子家庭だから遊んじゃいけません。

 

家に帰ればお前達が居なければ、学校に行けば一人、姉は自分が標的にならないために私を母と標的にした。

 

初めて家出したのは小学校3年生。

1時間で捕まった。親が探した理由は「未成年が家出したら私が捕まる。」

 

諦めた。

あがいてもあがいても大人には勝てない。

あがいてもあがいても他人は助けてくれない。

 

家出したままそのままのたれ〇ねば楽になるだろうと年1回家出を繰り返した。

捕まったその後が怖くて1年に2回も家出する気にはならなかった。

 

小学校6年の時、母から「お前は男だから中学出たら働けよ。」

この時、働くのだから家から出ていけるとすごく喜んだものだ。

 

中学に入り4つの小学校から集まる中学校で、いじめはひどくなった。

不良漫画の影響か学校でも殴る蹴るが始まった。

大人に殴られるほどでもなかったのでただうっとおしいだけだった。

 

先生は目撃しても見て見ぬふり。

同級生は自分の標的になるのが怖くて見て見ぬふり。

姉も同じだった。

中学校の近くの田んぼに正座させられてた。

 

そんな日は家にいると姉から殴るけるを受ける。

 

やめて、やめて、やめて、やめて

いっそ〇してくれればいいのに。

 

成績は中の上

母は学校から高校に行かせた方がいいと就職の幅が広がると3者面談の時に言われ

公立ならと考えてるけど、この子が働くというので子供の意思を尊重して働かせます。

この時に反撃した。「○○工業高校に行きたい。公立ならいいんだよね。」

先生がいる前で言ったことに鬼の形相になっていた。

 

受験に失敗させるためか家で勉強なんてさせてもらえなかった。

学校後に新聞配達のような学生労働をさせられた。

 

入試発表時、私は合格した。

親から入学はさせてもらえなかった。

 

中学校の学年担任全員がいる職員室に呼び出された。

担任「先生全員でお金を出し合う。お前の気持ちが知りたい」

私「その話するのは親にじゃないんですか?行きたくないのに試験なんて受けないでしょう?」

 

もしかしたらこの時が私の分岐点だったんじゃないのかといまだに思う。

行きたいと子供ながらに助けてといえばよかったとふとした時に思い出す。

 

親と話し合いが長引き入学手続きには間に合わなかった。

 

だからどっちにしても中学卒業で家を出るならと嫌がらせ第二弾。

2次試験夜学入試申し込みでもちろん合格。

 

この時、子供ながらに心から初めて笑ったと思う。

 

学校は母と話し合いがうまくいかず攻める標的が私に切り替わった。

「お前は行く気もないのに2回も試験受けたのか!!」

「お前の為に2人が高校に行けていないんだぞ!!」

 

1次試験の時に私を思いやるように、心配する言葉はどこに行ったんだ?

学校には「未成年は保護者の同意がなければ何もできないんですよ?

いくら行きたいといっても、許可がなければ何もできない。もうほっといてくれと」

私は学校に行かなくなった。

ただ私をいじめていた2人が私の志望校で落ちていたから天罰なんだろうな~と少し心が軽くなった気がしていたのは今でも思い出せる。

しょうもない復習にもならない事で喜びの感情なんて壊れてたんだと思う。

布団たたきが折れる事、竹刀で叩かれる事、すべて終わったと思った。

今の状態が4月には終わるんだ。

この先に起こる事を知らずに私は義務教育を修了した。